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通称「共謀罪」について思うこと 




 この件について色々と考えてみたが、ずっと私の中にあった違和感の原因は、そもそもこの問題の取り扱い方にあるような気がする。

 国会では多くの法律が審議される。そのうち、私は全ての法律に賛成するわけではない。同時に、全ての法律について反対するものでもない。すなわち、特定の法律への反対が、その時の私の政府への支持/不支持を決定するものではない
 しかし、野党はこの法案を国会における最大の論点に位置付け、この法律への賛否と政権への支持を強く結び付けた。それは果たして、この法律が本当に何よりも重要な法律だと思っていたからなのだろうか。それとも、この法律は多くの人の不支持を取り付けられそうだから、主要論点に据えることで政権の不支持に結び付けることができるという意図が潜んでいたのだろうか。

 というのも、正直、このテロ等準備法案の導入が大きな論点には思えないのだ。実際、私達の生活にそれほどの影響を与えるとは思えず、同時に、この法律でテロが防げるともあまり期待できない。良くも悪くも、それほどの効力のある法律に見えない。かつての60年安保の時のような問題とはレベルが全然違うと思う。もっと論じる問題は沢山あると思う。

 個人的に最も嫌悪感を抱くのは、反対派がこの法案を「共謀罪」と言い換えたことである。
 なぜなら、それは単なるイメージ戦略だからである。勝手に名前を言い換えて、「共謀罪だから駄目だ」と言わんばかりの主張は、「何故か」の理由が見えない。曖昧な懸念を振り撒くだけで、どの法益をどの法益より優先すべきだと考えているのか、総合的な見解を示してくれた例にお目にかかることはできなかった(後述)。



 既に、特定法によって警察が「暴力集団」を一方的に指定し、個別具体的な犯罪を犯す前からその集団を監視するとともに、一般市民に対しても「その集団と関わりを持つな」と強い「申し入れ」をし、結果してその「暴力集団」に指定された人間はゴルフをしたり銀行口座を開設したり携帯電話を持つといった私契約をほぼ完全に封じられている事例が存在する。彼らが堪らず他人の名義を借りた場合は詐欺罪で微罪逮捕し、それをマスコミに大々的にリークしている。

 もうお解りだろうが、いわゆる暴対法である。
 ちょうど、テロ等準備罪の審議中に山口組組長の微罪逮捕のニュースが流れたが、テロ等準備罪反対派の人からこれを人権侵害だという声を聞いたことはない(注:私の見知らぬところにあるかもしれないが)。実際の犯罪が起こる前の処罰を非難するのであれば、暴対法を認める理屈はないように思うのだが・・・。

 そう言うと、おそらくこんなような反論が返ってくる。「暴力団と一般人を一緒にするな」と。こういうニュースがあって心底驚いたのだが、まさか「一般人を対象にするのがダメであって"悪い奴"は別」という考え方なのだろうか。
 だとしたら驕りにも程がある。どんなテロリストだって「自分は正しい」と思っている。貴方が「正しい」ことは絶対ではない。その程度も相対化できないのだろうか。

 これはこの法律に限らず全ての権利論に言えることだが、自分の利になるように権利を主張するのはただのエゴだと思っている。エゴにはもちろん自分の「1票」分の価値はあるが、それ以上はない。たまたま自分と利を共有する人が10人居れば10票になるが、それだけである。
 なのに、そのことを理解しない人は、「自分達の権利を他人は尊重しない」とか本気で言い出す。その人の見解が他人に採用されない理由は主に「それが当人の利でしかないから」なのだが、そのこと自体を理解していないか、あるいは自分の利を他人は尊重してくれるものだという漠然としたイメージを抱いている。

 本来、権利にはプラスの反面としてマイナスがある。損害賠償を請求する権利とは、逆に損害賠償を負う義務を意味する。多くの場合、「自分が得をする権利」というもの自体が、自分がどちらか一方だけを得る立場にあることを前提にした、歪んだ構造の中にある。

 確かに、「他人の物を盗めるが他人に自分の物を盗まれる社会」よりも、「他人の物は盗めないが自分の物も盗まれない社会」の方が社会全体の便益が高くなる。こういった関係は確かに在る。それこそが社会的に認められるべき「権利」だ。それは全体的なプラスマイナス双方の便益を比較しなければ導けない。一方・一部だけを主張したところで何にもならないはずだ。

 で、話をテロ等準備法案に戻す。この法案を反対する人達の中に、逆の立場から検討した視点が全くと言ってよいくらい見られなかったのが非常に気になるのである(注:これもまた私の見知らぬところには在るのかもしれない)。

 テロ等準備罪の反対派の人達は、法律がもたらすデメリットを感じているのであろう。「嫌だ」という感情だって完全に無視することはできないデメリットである。
 では、一方でこの法律のメリットは何なのか。一義的には、言うまでもなくテロへの対策である。反対派の人達がそのことにどう考えているのか、例えば「現状のテロのリスクは今のまま自ら背負うから」というような見解の提示は見られなかった。この辺、テロを防ぐのは警察の責任だから(私は案を出さないけど)他の手段で遂行してください、というような思いも透けて見えた感がある。でもそれはあまりに無責任ではないか。



 この法案に関しては、全体的に論じている人のレベルの低さを感じた。国会議員までもが「内心の自由を侵害する」と言っていたのを聞いて唖然とした。

 「内心の自由を保障する」とは日本国憲法に書いていない。なぜなら、催眠術師でもない限り他人が人の内心を変えることはできないからである。当たり前である。例え踏み絵をさせたところで、完全に棄教させることはできない。踏み絵をさせるという行為への強制はまだしも、内心は外から変更も把握もし得ない。同時に、どれだけ反道徳的なことを考えていても、それを一切外部に示さなければ何の害も与えない。「内心の自由」はそもそも憲法でどうこうできるような代物ではないのである。

 一方で、ただ内心で思っているだけではなく、外部にそれを何らかの形で示した場合には、他人に影響を及ぼすことになる。その時点で他人の権利と衝突する。「表現の自由」は、その時に制約を受ける。日本国憲法21条は確かに存在するが、同時に12条も存在する。

 これは、権利論を考える時のごくごく初歩の考え方だ。にもかかわらず「内心の自由」などと言ってしまう人は、その領域にまで達していないと思わざるを得ない。なぜ内心の自由が絶対的で、表現の自由がそれよりも一歩劣るのか、考え方の整理ができていない。その国会議員に人権問題を論じさせること自体が非常に危険に思える。
 
 この法案の反対理由として「表現の自由の萎縮」を掲げる例も多く見た。(これには報道で飯を食っているマスコミの報道を通した要因も大きいと思うが。)
 しかし、なぜそこまで「表現の自由」を神聖視し、そのマイナスの効果のことを一切顧みない、顧みる必要など無いと考えるのか、正直、理解しかねた。ここで彼らが言っている「表現の自由」とは単なる娯楽的創作作品だったりする例も多く、投票行動の根拠となる「政治的」表現の発露を求めるならまだしもなあ・・・。

 先に書いたこととも重なるが、「表現の自由」を求める時、自然と「表現さえできれば理解してくれるはずだ」と考えてしまう人は多い。
 しかし、「表現の自由」とはあくまでもその人が取捨を熟考する可能性を与えることに価値があるのであって、その表現の内容を「受け入れる義務」ではない。
 実際には、その表現の内容を支持する人は先んじてその表現に触れている例が多く、後発の人はむしろその考え方にあまり馴染まない可能性が高いのではないか。言わば、表現が広まるほど、その表現の内容を採用しない人は増えていくのである。
 
 「神に従え」「異教徒は皆殺しにしろ」、実はこれもまた一つの政治的選択である。投票の結果として日本国政府がこれを選ぶことになったとしても、然るべき手続き(憲法改正も含むだろう)さえ経るのであれば否定できず、むしろ選択肢から外すこと自体が許されないものである・・・というのが本来の「民主主義」である。
 自分に都合の良い表現だけを対象にした「表現の自由」を主張するのであれば、せめてその歪みは自覚していただきたい


 

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